【怖い話】青函連絡船洞爺丸の謎

今から20数年前に函館に蒸気機関車を撮影に行ったことがある。撮影を終えて市内の旅館に戻るタクシーの中で運転手からひとつの怪談を聞かされた。

とある日の早朝、江差方面から函館市内へ向かって国道を流していると、七重浜のあたりで手を上げている娘がいたので車を止めた。

「市内へ行って」というのでちょうどいいと思い車を走らせたが、市内へ入ったところでふと気がつくと後部座席の娘は忽然と姿を消していたというのである。

この怪談はただこれだけである。何のひねりも特別なオチもない。しかもこの手の話は「碓氷峠の幽霊娘」の項でも述べたとおり、全国にごまんとある「乗客消失怪談」の類型だ。ただこの怪談は私の人生の中で耳にしたそれこそ数え切れないほどの怪談話の中で、唯一の本人体験談である。

実は我々が普段耳にする怪談話の99%以上が「だれか第三者から聞いた噂話」なのであり、ひどいのになると「妹が友人から聞いた」といった又聞きであったり、又聞きの又聞きであったりするものである。

それとこの怪談話の背景にはある巨大な出来事が関係しているのだが、私がそのことに気がついたのはずっと後になってからのことだった。

その巨大な出来事とは、1954年(昭和29年)に起こった、年配者にとっては決して忘れることのない「青函連絡線洞爺丸沈没事故」である。

洞爺丸は、太平洋戦争中の空襲で壊滅状態にあった青函連絡線を立て直しをはかるため、国鉄が1948年(昭和23年)に大雪丸、羊蹄丸、摩周丸と共に建造した連絡船で、全長113.2m、排水量3,800トン、乗客定員約1,100人と鉄道の客車・貨車を搬送できる最新鋭船だった。

1954年(昭和29年) は1月の二重橋事件、2月の造船疑獄、3月の第2福竜丸被爆事件と暗いニュースと共に幕を開けた年だった。

そんな中で青函連絡船最新鋭の洞爺丸には8月7日にお召船に選ばれるという最高の栄誉が与えられた。そのわずか1ヶ月後、洞爺丸は魔女「マリー」に襲われる。

9月26日、後に「洞爺丸台風」とも呼ばれることになる「マリー」こと台風15号は、一度九州に上陸してから日本海上をなんと時速110キロという常識はずれの猛スピードで北上、同日午後には津軽海峡に接近しつつあり、海峡では朝から強い風が吹き始めていた。

洞爺丸は午前6時30分に青森を出港、多少揺れはしたが定刻5分遅れで午前11時5分に函館に到着した。この後、午後2時40分には折返し青森に向け出港する予定になっていた。

洞爺丸が函館に到着する直前に青森を出港した貨物船「渡島丸」(2,912t)は海峡に入ったところで激浪に襲われ難航、午後12時40分に各船に向け無線で警告を呼びかけた。

この知らせを受け、12時10分に函館を出港して青森に向かっていた貨物船「第六青函丸」(3,194t)はただちに運航を中止して函館に逃げ帰った。

また午後1時20分に北海道駐留米軍第一騎兵師団の兵士・家族とそのための荷物車と寝台車を搭載して出港した「第十一青函丸」(3,143t)も運航を中止して函館に引き返し、米軍兵士達をより安全な新鋭船の洞爺丸に移乗させ始めた。

午後2時8分、洞爺丸に接続する根室発の急行「まりも」が函館に到着、この列車には28日・29日に東京で開催される全国管理局長会議に出席するため、国鉄札幌総支配人他北海道の各管理局長が乗車していた。

この時点で洞爺丸は予定通り出港するつもりだった。新鋭船の洞爺丸ならこのくらいの波浪なら乗り切れると考えていたのである。しかし台風はどんどん近づいてくる。一刻も早く出港しなければならない。

そういう時に第十一青函丸の米軍兵士達とその専用車輌を移乗させなければならないことに洞爺丸側は苛立った。すでに定刻より30分遅れて時刻は3時10分になろうとしている。結局、荷物車は積み込んだが寝台車の積み込みは拒否して可動橋を上げようとした、まさにその時。

突然、桟橋が停電し可動橋が上がらなくなった。これで緊張の糸がぷっつり切れた洞爺丸は出港を断念、テケミ(天候険悪出港見合わせ)を決定する。

この停電はわずか2分で復旧して可動橋は上がったが、一度出たテケミは取り消されなかった。

洞爺丸では台風の進行速度が非常に速いので、逆に2、3時間も待てば通り過ぎてしまうだろう、それまで待って出港しようと考えた。

「テケミ」の連絡を受けた運航司令室からは洞爺丸に対して、出港しないなら乗客・車輌をおろして沖出し(岸壁から離れる)するよう勧めてきたが、洞爺丸はこれを断った。せっかく乗船した乗客をおろして火の気のない桟橋待合室で長時間待たせるのは忍びないという思いやりが働いたのだろう。

この時、すでに台風15号は青森県の西方100キロの地点まで到達し、函館港内も風速20メートルの突風が吹き荒れ始めていた。午後4時頃、函館構内の浮標に係留されていたイタリア船籍の貨物船エルネスト号(7,341t)の係留チェーンが突然切れて走錨し始めたため、函館港内は一時パニックに陥ったりした。

しかし午後5時頃になると急に風がおさまって空も明るくなり、やがて西方の空は茜色の夕焼けに染まった。そこにいた誰もが「台風の眼」だと直感した。ただそれにしては気圧があまり下がっていないのが奇妙だが、それはすでに台風の勢いが衰えてしまったのだろうと思われた。

これなら出港できると洞爺丸は判断した。これが台風の眼であるならば、台風15号の進行速度の速さから考えて、あと1時間もすれば100キロの彼方へ抜け去るであろう。その間、多少の吹き返しはあっても青森までの航海には大きな支障はないはずだ。

洞爺丸は遅れ4便として6時30分に出港することを決定した。

一旦おさまったかにみえた風浪は再び激しさを増し、風速は40メートルを超え、洞爺丸は函館港の防波堤を超えたところで立ち往生してしまった。

このまま海峡出るのは危険と判断、午後7時1分、出港からわずか20分後に洞爺丸は投錨してこの吹き返しをやりすごすことにした。しかしいくら船首に立てようとしてもほとんど舵もきかず、その内に錨をひきずったまま洞爺丸は木の葉のように揺られながら、次第に七里浜の方へ流され始める。

8時11分頃、激しい波浪のため後部の車輛甲板から浸水し始め、9時00分には左側エンジンと発電機が故障した。

午後10時13分、ついに両エンジンが停止し、まったく行動の自由を失った洞爺丸は、最後の手段として七重浜への座礁を決意する。

そして10時26分、大きなショック音と共に触底、とりあえずほっと胸をなでおろしたのも束の間、横っ腹へまともに押し寄せる波浪のために船体は次第に傾きを増し、午後10時43分、洞爺丸は七里浜の沖700メートルの地点で横転沈没した。

座礁したと思った海底は、「漂砂現象」という、強い波で大量の砂が押し寄せられたために作られた「幻の海底」だった。

横転沈没がほとんど一瞬の間に起こったため、超満員の乗客の大半が逃げ出す暇もなく、乗客乗員合わせて1051名が死亡、「洞爺丸沈没事故」は、もちろん日本史上最大、世界史上でも第2位の大海難事故となったのである。

実はこの日、台風15号のために沈没した青函連絡船は洞爺丸だけではなかった。函館港内での衝突の危険を避けるため、洞爺丸より先に港外へ出ていった第十一青函丸は午後8時頃、横波を受けてSOSを発信する暇もなく横転沈没、乗員90名全員が死亡した。

同様に港外へ出て台風をやり過ごそうとしていた貨物専用船北見丸も46輌の貨車を搭載したまま、午後10時35分に横転沈没、同じく日高丸も午後11時32分にSOSを発信したのを最後に横転沈没、浸水で船体が傾斜しながら最後まで港外で頑張っていた十勝丸も、午後11時36分、函館桟橋宛てに「浸水だいぶおさまり、アンカーに異常無き限り安全の模様、付近に沈船漂流中、(中略)全員意気軒昂・・」と打電した瞬間に横波を食らって横転沈没した。

最終的に台風15号は一瞬にして5隻もの連絡船を沈め、乗員乗客併せて1430人の生命を奪ったのである。海難事故といえば1912年に発生した世界最大の海難事故であるタイタニック号遭難事故(死者1513名)の方が日本でも有名になっているが、洞爺丸事故も他の4隻の遭難を併せればタイタニック号事故にほぼ匹敵する大惨事であり、それが50年足らず前の日本で発生しているのだ。

しかし誰もが「台風の眼」だと信じた晴れ間は、実は閉塞前線による自然の悪戯で、台風15号は速度をぐっと落として津軽海峡のすぐ西の海上で猛威の牙を剥きだしていたのである。

6時39分に洞爺丸は乗客1,151名を乗せて青森に向け出港、しかし2号浮標をかわして進路を西にとり港口に船首を向けた時、激しい南風と波浪が洞爺丸の左舷にぶつかってきた。

この世界最大級の海難事故は皮肉にも海運会社によってではなく、鉄道主体の会社である国鉄によって引き起こされたものであった。当の国鉄にとってはこれほど無念であり屈辱的な事故はあるまいと思う。ではこの世界最大級の海難事故「洞爺丸沈没事故」が発生した原因は何だったのか?

自然現象としてはまず台風15号の猛威と常識外れな行動パターンが挙げられる。国鉄はこの台風の動きと威力を予測することは不可能だったと、「不可抗力説」を主張したが、「これだけの大事故の原因が不可抗力とはなにごとだ」と遺族を中心とした世論の強い反発を招いた。

運も悪かった。最初に出港準備に入った直前のわずか2分間の停電がなかったならば、可動橋が上がり洞爺丸は予定通り出港、台風をすり抜けて無事青森に到着する可能性が高かった。

しかしこんな結果論を言っても始まらない。

特に「不可抗力説」が攻撃される理由のひとつに、洞爺丸に先立って函館を出港した第六青函丸や第十一青函丸が次々に引き返して来る中、なぜ洞爺丸だけが出港したのか、ということが挙げられる。

実はその理由は単純だ。第六青函丸や第十一青函丸は洞爺丸よりひとまわり小さく、しかも老朽船であったのに対し、最新鋭船の洞爺丸がちょっとやそっとの台風で沈むはずがないという考えが、洞爺丸の船長のみならず、関係する全員の心の奥底にあったからだ。一種の「不沈船信仰」である。

そして私自身はこの不沈船信仰こそが洞爺丸事故の本質的な原因ではないかと考える。

函館湾内で大きく揺れる洞爺丸の船内で、乗客のあちらこちらから「大丈夫だ、洞爺丸が沈むわけはねえ」という叫び声が聞こえたという。もちろん乗務員も同じ思いだったに違いない。そしてこの不沈船信仰は、実際に沈没してしまう瞬間まで信じ続けられる。

そういう意味ではタイタニック号の場合も、状況は非常によく似ている。

すべての関係者が世界最大の最新鋭豪華客船が沈むはずはないと考え、だから「沈まない船に救命ボートは要らない」ので、プロムナードの美観を損ねる救命ボートは乗客定員数よりはるかに少ない数しか搭載されていなかった、と映画「タイタニック」の中でも語られている。

「不沈船信仰」は船の話に限ったことではない。学生は沈まない船を目指して大企業に就職し、たとえ超大企業であってもひとたび判断を誤ればいとも簡単に倒産することを我々は何度もこの眼で見ているのだが、当の社員や関係者でさえも実際に倒産するまで「倒産しない」と信じている。

「タイタニック」が沈没しても、「不沈戦艦大和・武蔵」が撃沈されても、「不沈船信仰」は根強く生き続けていく。

洞爺丸出港の謎については、事故直後にある噂が流れ飛んだ。この洞爺丸には東京の国鉄本社で開催される全国管理局長会議に出席するため、国鉄札幌総支配人や青函管理局長等国鉄最高幹部連が乗客として乗り込んでおり、それら幹部連が船長に対し「会議に間に合わなくなるから早く出港させろ」と圧力をかけたというものである。これが事実ならゆゆしき事態である。

国鉄の最高幹部連が洞爺丸に乗船していたことは事実だが、圧力をかけたというのは事実ではない。

この噂の発端は乗客の一人が洞爺丸がなかなか出港しないのに苛立って乗務員の一人に「船長に会わせろ」と噛みついたのに対して、その乗務員が苦し紛れに「今、船長は会議中で」とでまかせを言ったものだということがわかった。

その乗客はしびれを切らして無断で下船してしまい、そのために難を逃れたのだが、事故後になって新聞記者のインタビューに対し、あたかも自分が会議の現場を見ていて国鉄幹部が船長に圧力をかけていたのだ、と吹聴してしまったのが記事として発表されたのである。

しかしこの話は「出港した理由」として人々にとって非常にわかりやすい理由だったので広く流布され、後に色々な書物で否定されているにもかかわらず、ずっと噂として信じられていた。「噂」とはそういうものである。

1500名近い犠牲者を出した洞爺丸事故の後、函館ではお決まりの「怪談」が数多く語られるようになった。七重浜の国道で、夜中にずぶ濡れの女性が馬車を呼び止め、乗せてくれと言う。

乗せた後、しばらくしてからふと後ろを振り返るとそこには誰もいなかった。

冒頭の私がタクシーの運転手から聞いた話と同類である。七重浜の職員養成所では、夜中に窓ガラスを激しく叩く音がする。ガラス越しに誰かが立っているのが見えるので、外に出てみたら誰もいない。

その養成所の時鐘が夜中にかすかに鳴り始める。人が行くと鳴りやんでしまう。

怪談は函館だけではなく対岸の青森にも飛びかった。

青森駅では夜中に待合室の窓ガラスを叩く音がする。当直員がふと見ると窓ガラスにはずぶ濡れになった人の顔が無数に浮かんでいる。翌朝、気を取り直した当直員が見に行くと、その窓ガラスには大小さまざまな人の手形が残っていたという。

実話として不思議な因縁話もある。

洞爺丸が沈没した9月26日の深夜、ラジオ東京が「洞爺丸が座礁した」という臨時ニュースを放送した直後に流した音楽が偶然にもアルゼンチン・タンゴの名曲「SOS」だった。

この奇妙な符号に局関係者は一同ぞっとしたという。この「SOS」という曲は、この他にも世界各地で不吉な因縁話があったため、後に「コンデナ」と改題されている。

洞爺丸が沈没して多数の遺体が七重浜に流れ着くと、身元のよくわからない若い女性の遺体にすがりつき、自分は夫であると言って遺体を引き取って国鉄からの見舞金を搾取しようとする男も現れた。

そういうのは1人や2人にとどまらなかった。

下手な「怪談」よりもこういう「実話」の方がはるかに恐ろしいではないか。世界最大級の海難事故を発生させ、5隻の連絡船を一気に失い、1430人もの尊い犠牲者を出した国鉄にとっての無念と屈辱、函館桟橋でテケミをしている最中に苛立ち、あるいは気分が悪くなって、下船を申し入れたが、「一旦乗船したのだから」と下船を許されず、そのまま遭難してしまった乗客とその遺族の方々の怨念、それらが事故後もずっと渦を巻いて残っていた。

洞爺丸事故から50年、今では青函トンネルが開通して連絡船もなくなり、日本最大の悲劇も時の流れと共にやがて忘却の彼方に消え去ろうとしている。それはそれで必ずしも悪いことではない。

人間の大脳には嫌な想い出、辛い想い出は忘れてしまおうとする自律機能があって、これがなくては人はまともに生きていけない。

しかし時に「いや、忘れさせないぞ。忘れさせてなるものか」という反作用が働くことがある。

これこそが「怪談」の本質であると私は感じている。

Posted by takahashi